「かつてマリアであられた」

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ブルクマイアー画「磔刑図」ここでは、「すべての民の御母の祈り」の中にある「かつてマリアであられた」という意味について説明しようと思います。
なぜなら、「主イエズス・キリスト御父の御子よ……」という、聖霊の到来と世界平和を求める短く力強い祈りは、聖母ご自身が口述されたものですが、多くの人びとが「かつてマリアであられた」という意味を理解できないでいるからです。
しかし、それは驚くにはあたりません。
幻視者自身、幻視者の指導司祭、そして司教様でさえ、初めは理解することができなかったのですから。

この説明の部分は、パウロ神父の著書「すべての民の婦人――共贖者・仲介者・執りなし手」の中から、許可を得て引用させていただきました。

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「かつてマリアであられた」の意味
マリア・パウロ・ジーグル神父(「すべての民の御母」普及の会訳)

1.「祈りを変えてはなりません」(1951年3月28日のメッセージより)

主イエス・キリスト 御父の御子よ
あなたの霊を今 全地の上に遣わしてください
すべての民が堕落、災害、戦争から守られるよう
すべての民の心に聖霊を住まわせてください
かつてマリアであられたすべての民の御母が
わたしたちの執りなし手でありますように
アーメン
「かつてマリアであられた」という表現に、初めは幻視者自身もその霊的指導司祭も驚き、戸惑いました。「告白しますと……」とイーダは次のように続けます。
「『かつてマリアであられた』という言葉は本当に奇妙だと思いました。『でも、マリア様は今もいつもマリア様じゃありませんか。あなたはマリア様です』と私は考えたのです。後でこのメッセージをフレーエ神父様に渡した時、神父様は『なんだ、これは。……かつてマリアであった……だと? そんなことがあるわけないじゃないか! 彼女は今までも、そしてこれからもいつもマリアだ』とおっしゃいました。
『私にはこれがどういう意味なのか分かりません。でも、私は婦人のおっしゃった通りにそのままを伝えなければならないんです』と申しますと、神父様は『それは、もちろんだ。だが、この部分はさっぱり分からんよ』と言われました。私の家族もこの部分は不思議な言葉だと思い、『あなた、ちゃんと聞いたの?』と私に問い正すのでした。『もちろん、はっきり』と私は答えました」
当時ハーレムの司教であったモンシニョール・フィバースも疑念を持ちました。そしてさして影響がないように見える「省略」をすることによって問題は解決できると思い、この言葉は最初の印刷の時点で削除されました。しかし、後に続くメッセージでマリアは、婦人の祈りは再び完全な形に戻されなければならないと、何度も強調なさったのです。
「次のことだけを伝えたくて参りました。あなたの霊的指導者にすべては順調であると伝えなさい。ただ、御子は従順を要求なさいます。御子のみ旨は果たされなければなりません。……祈りは『そのまま』広められなければなりません。私があなたに唱えてみせた、主イエス・キリスト御父の御子よ……の祈りの言葉を変えてはなりません」(メッセージ29)
「婦人は再びその祈りを祈られ、私(イーダ)に活字で書いてある祈りを読ませました。『あなたの霊を今遣わしてください』の『今』と、『すべての民の心に聖霊を住まわせてください』の『すべて』に傍線が引かれているのが見えます。婦人は続けてお話になります。
『かつてマリアであった……これはそのまま残しなさい! 慎重なのは良いことですが、御子は御子のお望みを成し遂げるために、私をあなたに遣わされたのです。このことを指導司祭に伝えなさい』」(メッセージ29)それから約一年後にも、まだ聖母はそのことについて強くおっしゃらなければなりませんでした。「あなたの司教に、この祈りを完全な状態に戻すことに同意するように願いなさい。『かつてマリアであったすべての民の婦人が私たちの執りなし手でありますように』と」(メッセージ39)また、マリアは神学者たちにも忠告されます。「祈りを変えたことに私は満足していませんと神学者たちに言いなさい。『かつてマリアであったすべての民の婦人が私たちの執りなし手でありますように』という部分は、このままでなければなりません」(メッセージ41)「かつてマリアであられた」という表現の意味するところを、教会当局がより良く理解した後、聖母の明確なお望みが受け入れられ、こんにちでは最初に与えられた形のままでこの祈りに60ヶ所以上の司教区でImprimatur インプリマトゥア(教会認可)が与えられています。

2.「マリア」という名前から、「すべての民の婦人」という称号へ

聖母はすでに1951年7月2日に、次のようにはっきりと簡潔に説明しています。

「『かつてマリアであった』とは、大勢の人はマリアをマリアとして知って来たという意味です。しかし、私はこれから始まる新しい時代の幕開けに、すべての民の婦人となることを望んでいます。これなら、誰にでも理解できます」(メッセージ34)

「大勢の人」とはすなわち、当時の、そしてこんにちの民族の大部分のことです。事実彼らは「マリア」を、つまりイエスの母を、単に「マリアとしてのみ知っている」(メッセージ34)のであり、そしてそう呼んで来ました。これは認めなければならないでしょう。わずか人類の6分の1のみがキリスト教徒であるということを考えて下さい。

しかし、今、「これから始まる新しい時代の幕開けに」、神はすべての民族がマリアをただ単に名前によって知るだけではなく、自分たちの母として受け入れ、愛することを学ぶようにとお望みなのです。そして、アムステルダムの最初のメッセージですでに「人びとは私を婦人、母と呼ぶでしょう」(メッセージ1)とおっしゃったように、私たちがもはやマリアをただ「マリア」と呼ぶだけでなく、「私のママ」「私たちのお母さん」と呼ぶことをお望みなのです。(メッセージ1)

もし私がただ「マリア」と呼ぶのではなく、「お母さん」と呼ぶなら、私の側から聖母に対する関係に、今までとは違う、決定的な変化が生じるのです。

しかし、誰もがこの簡単な説明で納得するわけではありません。ですから、聖母は41回目のメッセージで「マリア」という名前から「すべての民の婦人」という称号への変化がどのように行われたかを、聖書に基づいて説明しているのです。福音書へのこの示唆は、とりわけ神学者たちにとって手助けとなるはずです。

「次のことを神学者に伝えなさい。十字架上で生贄が捧げられた時に婦人は来ました。御子は母に仰せになりました。『婦人よ、あなたの息子を見なさい!』と。

十字架上での生贄の時に変化が起こったのです。創造主であられる主は、すべての婦人たちの中からミリアム(あるいはマリア)を、神の御子の母としてお選びになりました。十字架上で生贄が捧げられた際、彼女は共贖者、仲介者となりました。このことは御子が御父のもとへ戻られる時、御子によって告知されたのです。ですから、私はこの時代に、この新しい言葉をもたらし、言うのです。『私はかつてマリアであったすべての民の婦人です』と。これをあなたがたの神学者たちに伝えなさい。この言葉は神学者たちにとってこのような意味があるのです」(メッセージ41)

3.「かつてマリアであられた」とはマリアの尊厳を少しも損なわない

「かつてマリアであられた」という表現になじむことができない人たちがいます。特に聖母信心のある人たちがそうです。彼らは誠実な信心深さの中に、この言葉が彼らの御母の尊厳を軽視、あるいは軽減しているように感じてしまいます。

このような人にこそ、「かつてマリアであられた」という表現が決して聖母の価値を損なうものではないことを、このメッセージをもとに示すことができます。なぜなら、「かつてマリアであられた」という表現は決して単独で用いられることがないからです。この表現は例外なく常に「婦人」または「すべての民の婦人」という素晴らしい聖書的な称号と共に、1つの決まった言い回しの中でのみ使われているからです。

「すべての民の婦人」が聖書的な称号であるというのは、臨終の際、贖い主である御子の口から発せられた「婦人よ、これがあなたの息子です!」という言葉、すなわち、御子から聖母へ宛てた遺言として聖母がこの称号を受けたからです。

4.あなたはいつもマリアではありませんか?

初めてこの祈りを聞いた人、あるいは初めて祈った人のほとんどは、当時幻視者とその指導司祭が抱いた驚きを一様に感じて、こう思うでしょう。「でも、いつもあなたはマリア様ではありませんか。あの時も今もマリア様で、他の方ではありません!」と。

もちろん、私たちがロザリオの祈りの中で「アヴェ・マリア」と何度も繰り返し唱えるように、マリアはいつも「マリア」と呼ばれて構いません。しかし、すべての民の婦人はまさにこの表現を通して、マリアの使命ですら1つのすばらしい発展であったことを示そうと望まれました。問題となっているのはいつも同一人物である「マリア」です。

ただ、アムステルダムにおいて「かつてマリアであられた」聖母は、ご自分の共贖者としての使命の頂点において「すべての民の婦人」と呼ばれることを望まれているのです。

なぜならマリアもまた、彼女の生涯を通して、彼女が「以前には」そうではなかった者に「なった」からです。

無原罪の恩恵に満たされ生を受けたナザレトの全く無名の一少女マリアは、そのフィアット(はい)によって神の子の御母と「なられました」。そして、救い主と一致した苦しみを通して、イエスの御母と「なられ」、さらにすべての民の婦人にも「なられたのです」。

そのすべての民の婦人として、マリアは今、この私たちの時代に知られ、すべての人びとに愛されたいと願われるのです。

すべては神の要望にいかに応え、いかに忠実に協力するかによるのであり、それは、マリアの場合も同様であったのです!

このことに関してより理解を深めるために、人が神の恵みと一致して働き、苦しみを担うことによってどのように神から与えられた使命にふさわしく成熟してゆくかを、具体例を挙げて示してみましょう。
「かつてヨゼフであった教会の父であり保護者が、私たちの執りなし手でありますように!」
「かつてジュセッペ・サルトであった教皇ピオ十世が天国において私たちの執りなし手となりますように!」

イーダの言葉を引用してみましょう。彼女は自分自身がこのことをより深く理解してからは、好んで質問者たちに次のような比較を示して説明していました。
「少女ベアトリックスが、やがてオランダの女王となる使命を遊び盛りの少女時代にすでに持っていたように、かつて、無名の地ナザレトでひっそりと暮らしていた素朴な少女マリアは、すべての民の婦人と『なられた』のです。」

5.許されない変更

ある人びとは、この問題に関して知り合いのカリスマを持った人の助言を受けなければならないと感じました。その結果、例えばオーストラリアやポーランドで、スイス、エクアドルで、祈りを変更するという事態が生じました。すでに聖母ご自身が、幻視者イーダとイーダの霊的指導司祭に、また司教と神学者の異議に対して明確な答えを示されていたにも関わらず、そのようなことが起こりました。

祈りに更なる変更を加える必要はないのであり、たとえ「カリスマを持った人」や「幻視者」が善意からするのだとしても、それは必要のないものです。たとえ彼らが恵みを受けているとしても、彼らの個人的召命と彼らの特別な使命を遂行することの中に、アムステルダムの祈りを直す権利や使命は決して含まれていません。

「この簡単な祈りはひとつの共同体を創りあげるでしょう」(メッセージ39)と、すべての民の婦人は約束して下さっています。もし、私たちが祈りを変え始めるとするなら、一体どこに一致が得られるのでしょう?

6.エキュメニカルな祈り

ひとりの信徒が善意からドイツ語の祈りを変更しました。「かつてマリアであられた」という部分を「無原罪の御宿り」と変えたのです。しかしこれもまたマリアによって口述筆記された祈りにおいては許されるべくもなく、また役立つものでもありません!

確かにマリアが無原罪の御宿りであり、そうあり続けるのは真実です。しかし、すでに説明したように、聖母は全く違うことを問題にしていらっしゃるのです。聖母は、すべての民の婦人として全キリスト教一致を目指す気遣いゆえに、ほとんどカトリックの信者によってのみ使用され理解される「無原罪の御宿り」という言葉を意識的に避けられたのです。プロテスタント各派に属する何億もの兄弟姉妹は、「無原罪の御宿り」という言葉が入っているような祈りを受け入れたりはしないでしょう。ましてや他の宗教の信者ならば尚更でしょう。しかし、イエスの御母が「かつてマリアであられた」という事実ならば、「誰にでも」祈りながら認めることができます。

アムステルダムの祈りにおいては、つまり、聖霊降臨のための、全キリスト教会一致のための祈りが私たちに与えられたわけです。地上の諸国の民が、彼らの母国語や方言をもって、母であり執りなし手である方に向かって「聖霊がおいでになるように!」(メッセージ32)と祈るならば、この祈りは彼らを1つにすることができるのです。

「主イエス・キリスト、御父の御子は、あなたがた皆が神に祈り求めるならば、聖霊をもたらしてくださるでしょう」(メッセージ39)

7.熟考するための祈り

ご自身が与えた形のまま祈りが広められることをマリアがこのように明確に望まれるとしたら、疑いなくそこには深い理由があるはずです。

聖母は決して争いごとを望んでいらっしゃるのではありません。しかし、聖母の言葉を人々が祈りつつ黙想し、聖母の母親としての使命の深淵さと世界的な規模について熟考することを求めておいでなのです。神学者ばかりではなく、すべての信徒が共に祈り、黙想し、学び、議論し合うべきなのです。そうすれば、あの「かつてマリアであられた」そしてすべての民の婦人となられた女性に関して、実り豊かな対話が持たれるでしょう。このように共に熟考し、祈り、愛を持って議論することを通して、聖霊は私たちを互いにより近づけることでしょう。家族、祈りのグループ、修道院、小教区そして学校、大学において、また司祭、司教、枢機卿の間において、そして教皇に至るまで、この祈りは互いを結びつけるでしょう。

この祈りは、神の愛である聖霊だけが結ぶことができる愛の絆によって、互いを結びつけるでしょう。何と言っても、聖母御自身が「この簡単な祈りが1つの共同体を造りあげるでしょう」(メッセージ39)と約束していらっしゃるではありませんか。

この祈りを忠実に祈ることだけで、反抗心が消え、平和が訪れ、そして新しいより深い理解へと心と考えが開かれることを、多くの人たちが体験しています。

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